コロナ禍は、大学を
不必要な存在にしつつあるのか。
さて、コロナ禍における今後の大学問題だが、コロナに関する情報が動いているなかでは正解はない。
ただこれだけは言える。
コロナ禍によって、大学という枠組みが世の中にとって必ずしも必要なものではないということが明らかになってしまった。
ネット社会の利便性がコロナ禍でさらに強調されることとなり、誰もが自宅にいながらにしてオンライン上にある高度な研究成果を自在に取りに行けることを、リモートによる仕事や学習を通して皆知ってしまったということだ。
本来大学、とくに私立大学には個別の建学の理念や特長に沿った教育内容や実践が備わっていた。だが、大学進学率が50%を超えて大衆化したあたりから、区別できなくなった。
その大学を卒業したからと行って、特別な力が養われたわけではなく、Aという会社に入れる実力が養われたかというと、そういうことでもない。それでもこれまでは大量の大学卒業生が就職できていたからよかった。
しかしコロナ禍によって学生の就職活動はこれまで通りにはいかないし、採用側も絞らざるを得ない。もちろんリモート授業によってキャンパスライフは失われている。
そうすると、ここへきて日本における大学の持つ意味は不明になってしまったのかもしれない。
歴史を紐解いてみると、日本における大学、特に私学においては幕末から明治にかけての福沢諭吉の存在が大きいと感じる。
福沢諭吉の主張は「独立自尊」であり、「一身の独立なくして一国の独立なし」と日本を一人前の国家たらしめるのは「私立」であるとした。
つまり国の補助を拒否して、「私立である自分たちはこういう教育がしたいんだ」という自らの理念にもとづく明確な存在理由を示していた。
隣国である韓国を見ると、進学率は70%となっている。これだけ大きな割合が大学へ進学するとなると、日本とは逆に、どこの大学へ行ったかが生涯つきまとう。熾烈な競争になり努力が求められるが、トップエリートをめざす20%の人はそれでもいいのかもしれない。
しかしそうではない8割の人は競争をするために大学へ行くのではなく、目的を達成するために大学に進学する。そうなると理念は関係なくなってくる。
また、理念というものは、豊かな歴史と伝統を備えたトップエリートをめざせる大学であっても巨大化すればそこから離れてしまう。巨大化した組織を理念だけで管理しきるのは現実的ではないからだ。
一度見失ってしまった「存在理由」を、コロナ禍の中で私学はどうやって取り戻せばいいのだろうか。
どの私立大学にも共通するような具体的な処方箋はない。そもそもコロナ禍は未曾有の経験であり、モデルがないのだ。
「授業料が高すぎる」「学費をもっと下げよ」という声は、今後も根強く寄せられることだろう。本件については後段で述べてみたい。
これだけは言える。
理念に基づいて、自らの存在理由を明確にしていく活動を不断に行うことこそが、ポストコロナ社会で生き残る術と言えるだろう。
(2020年9月初旬〜10月上旬収録)