「大学」「学力」とは
何だろうか
本稿は「ポストコロナ社会で生き残る大学とは」なるテーマで書いている。
昨年のシーズン1では「私学はそれぞれに備えている設立理念と専門分野に応じて、時代性や立地性を踏まえて再生させていくことが肝要。若き職員こそ、その活動の要になって欲しい」とメッセージした。
コロナウィルスの感染拡については、ワクチンの接種も進み、新たな局面に入った。
この世界にはさまざまな課題や問題があるけれども、そのうちのひとつとして、私が思うのは「大学とは何か」「何のために大学へ行くのか」ということだ。
世の中には、大学へ行かないで高等学校を卒業して働き、お金持ちになっている人も大勢いる。
私は1970年には芝浦工業大学へ入職し、その後、いくつかの大学、海外の日本人学校などを見てきたのだが、今でも「大学とは何か」という問いに戻ってくる。
大学は今日、東大を筆頭とする旧帝大から、定員が全く充足していない大学まで、一括りに「大学」として扱われている。
大学で培われる「力」とは何なのか。
東京新聞は2021年の8月に「大学回帰、低調」なる記事を掲載した。日本の企業が再教育の場として、大学を評価していないことについて指摘した。
文科省のデータによると、25歳以上の学士入学者の割合は2018年時点で0.5%で、経済協力開発機構(OECD)各国平均の16%と大きな開きがあり、さらには、30歳以上の修士課程の入学者は9.3%で、OECD平均の26%とかけ離れているという。
経団連が2018年に行った企業への調査によると、大学での再教育を評価しない理由として「大学で学び直して得る専門性より、実務経験で得た専門性の方が高い」を挙げた。
実社会の期待に応えられていない大学とはいかなる存在なのだろうか。
2022年度の入試もはじまっている。
昨今の高大接続改革では、学力について「学力の3要素」として、以下のように示し、大学入学共通テストも昨年度よりスタートしている。
あくまで私個人の見方だが、上記のなかで、「知識・技能」については、きわめて高度なものを除けばリモートで十分だし、もしかしたら大学である必要はないのではないか。
また、資格を得るためなら、教える側も研究者である必要もないだろう。
このたびのコロナウイルス感染拡大で、リモートによるオンラインの授業も日常のものになった。
それを踏まえて、私立大学をはじめとする各大学は、その大学でしか学べないことにしぼり、設立理念にのっとった特色を打ち出して、実社会からのニーズに上手く応えていくことが求められていくだろう。
(#2「『なぜ大学か』。それを自ら明確に示せる大学はあるか。」に続く)