「なぜ大学か」
それを自ら明確に示せる大学はあるか
1970年代の後半から80年代にかけて、ワードプロセッサが世に出たとき、瞬時に文字を変換する能力に驚いたものだ。「この機械は、何万文字の日本語を記憶しているのか。これからは日本人は漢字を覚える必要はないのではないか」と。
その一方で、最近テレビのクイズ番組などを見ていると記憶力がすごい人がいるが、素晴らしいとは思わない。パソコンで処理をする力と変わらないのではないかと思う。
いえるのは、大学の教員とは、旧帝大をはじめとするいわゆる一流大学に、記憶力にもとづく学力で入学した人が主流になることが多い、ということだ。
教員は大学の設置基準にもとづいて、教授会という集団を形成する。教育・研究を行い、入学者を入学試験によって決定し受け入れて、卒業させて大学を存続させていく。
教員集団は、新規教員の採用にあたっては公募の体をとりつつ、その学科を司る教員の、出身大学などの先輩・後輩の関係が維持され、系列校のようになっていくことが多い。
つまり、教員においても派閥が形成されることになる。
大学は、学術研究および教育における高等教育機関として優れた取り組みを行っている。だが、全体としては経営が優先されるようになる。
学長は、設置する学校法人が備える寄付行為(法人の定款)にもとづいて選ばれるが、学長を学長たらしめているは、教育・研究の手腕でもなく、また、経営的手腕でもない。派閥をまとめるを力といえよう。
さて、私の孫の世代が大学を選ぶ時期に来ている。
コロナウイルス感染拡大により、高校生の就職が厳しくなり、結果的に大学という進路を選択するケースもあるという。
多くの人が、小学校から大学にいくことが最終目標になってはいないか。
大学に行って何になるのか。
有名大学に入りたいと聞くが、何が有名なのかは知らないままだったりする。
その一方で、大学へ進学する学力があったとしても、大学という進路選択をしないで、Youtuberや声優をめざそうとする高校生もいると聞く。
そういう彼らを、大人はどう理解し、対峙していけばよいだろうか。
私自身のこれまでの経験や生き方から振り返ると、学力の3要素のうち、「知識・技能」ではなく、「思考力・判断力・表現力」「主体性・多様性・協働性」がどう修得できるのかを訴求することが、ポストコロナ社会に生きる大学だと考える。
そのために大学職員は、派閥や、慣習にしばられることなく、力を尽くしてほしいと願うばかりである。