アネスタ総研ではこれまで、高校生の進路選択に役立つ情報のうち、とくにダイバーシティ&インクルージョン(D&I)をテーマにしたインタビューを数多く行ってきました。
「障がい者も健常者も区別なく活動できる陸上クラブの運営を通して、インクルーシブな社会を実現したい」というシオヤレクリエーションクラブ理事長の塩家吹雪さんにお話を伺いました。
●プロフィール
塩家吹雪(しおや ふぶき)
特定非営利活動法人シオヤレクリエーションクラブ 理事長。
1971年生まれ。中学より陸上をはじめ、高等学校卒業後は専門学校に進学し、その後は陸上クラブの選手兼代表者としてクラブを牽引。
2000年より視覚障がい者の短距離走伴走をはじめ、数々の国際大会に出場。指導者としてパラアスリートの強化・育成や日本代表選手団のコーチ・監督を務める。障がい者が一般の陸上大会に出場できるよう主催者に働きかけるなど、障がい者の競技環境を整える活動にも従事。
2024 年より早稲田大学スポーツビジネス研究所 招聘研究員。
ーー高校生の探究学習のテーマを見ると「D&I」に関連する内容が多くなっています。「インクルーシブな社会を実現したい」とされる、現在の活動について教えてください。
特定非営利活動法人シオヤレクリエーションクラブを運営しています。本拠地は、千葉市です。
障がいのある子もない子も偏りなくともに活動し、かけっこ教室や陸上教室などスポーツを通して共生社会を実現していくことをめざしています。
健常者と障がい者の比率は、ほぼ半々です。どちらにも偏らない方針で運営しています。
ーーなぜこうしたクラブをつくったのですか。
日本の学校は、障がいのある子は分離して特別支援学級などで学ぶのが一般的です。これが共生社会の実現を阻む要因のひとつとされています。
実は私には、生きていれば年子の弟がいました。
彼は20歳過ぎに、サルコイドーシスという難病になりました。菌が肺で増えてそれが原因で不正脈を出すようになって、やがてペースメーカーを入れて障害者1級になったんですね。
20年ほど前、同好会のような陸上クラブを運営していたところに、たまたま目の見えない選手が入ってきて、100mの伴走を私がすることになりました。
それが弟がペースメーカーを入れた時期と重なって、それまでは障がい者という枠組みでのスポーツにあまり縁がなかったのですが、とても近くなったんですね。
そうこうしているうちに弟は半年ほどで亡くなってしまったので、それまでは「お手伝いする」という感覚だった障がい者スポーツに対して、もっと深く関われないか、というところではじまりました。
最近は「オリパラ」の理念もずいぶん浸透しましたが、当時は「スポーツの大会は、障がい者は障がい者で。健常者は健常者で」があたりまえでした。
これはおかしいと思っていました。
そこに弟が障がい者手帳をもったことで、友だちから連絡がなくなった、とか、どこかの施設を使うときに手帳を見せたら入場拒否をされた経験をしたことで、こういった世の中を変えていきたいと思うようになりました。
そういった「おかしさ」の要因になっているのが、障がいのある子が小さいころから分離されていること。結果として、多くの人が障がいのある子と関わりが少ないまま成人しています。
ーー具体的にどのような活動をはじめたのですか。
当時私は、陸上クラブの選手兼代表でした。
そこで「スポーツ、とくに陸上競技というツールを使って障がい者と健常者の距離を近づけることができないか」と考え、陸上大会の主催者に「健常者の大会に出場させてほしい」とお願いに行きました。
最初は門前払いでした。前例がありませんでしたから。
たとえば視覚障がいだったら「紐が外れたらどうするんだ」とか、義足だったら「外れたら危険じゃないか」とか、車椅子だったら「地面が傷つくだろう」と。いや、陸上のスパイクの方が針なのでよっぽど傷つくだろうと(笑)。
今では当たり前のように健常者の大会に出るようになりましたが。
3か月くらいあちらこちらに通い、最終的にはお世話になった先生方にお願いをして「何かあったら全部私が責任を取ります」と実現にこぎつけました。
たとえばレーンを使う競技であれば8レーンが一般的です。視覚障がいの場合、伴走者と2人で走るので「7人プラス伴走者」となり、1組で走れなくなることからレースを2つにしてタイムで順位をつけるようにできないか、などのやり方をお願いをしていきました。
そうこうしているうちに、少しずつ全国の健常者の大会に出場できるようになり、当時そういうクラブがなかったので「一般の大会に出たいなら東京にひとつだけある、塩家のところに行け」と注目されるようになりました。
また当時は、パラリンピックをめざす選手たちにとって、大会が年に3・4回しかありませんでした。それも冬場に近い11月や3月です。
陸上競技の大会はオリンピックを含め夏にあるので、春先に大会が多くないとコンディションが合わないんです。大会の参加が少ないままで競技会に行くスケジュール立てでは、アスリートにとって望ましくありません。
ですので、6・7月やオリンピックの後に開催されるパラリンピックに照準を合わせて大会が組まれるようにいろいろなところに働きかけました。
やがて関東圏では「チーム塩家なら出場を認めよう」となり、全国からさまざまな障がいをもつアスリートから声がかかるようになりました。
--多くのパラアスリートが、それを望んでいたのでしょうか。
そうだと思います。望んでもそれが実現する時代ではなかったので。
大会数が多くなり、大きな国際大会をめざす練習ができるようになり、そのころから日本のパラリンピックの競技力もグッと上がっていきました。
一緒にやることが競技力の向上に確実につながっていることを実感した数年になりました。
いろいろなお手伝いをしながらも、私が役に立てるのは一旦ここまでかなと思いはじめたところで、大きな転機がありました。
2012年のロンドンパラリンピックです。
私は日本代表コーチとしてロンドンに行きました。
「#02 障がいのある子もない子も 一緒にスポーツを楽しめる環境が 日本には少なすぎる|陸上を通して共生社会の実現をめざす」に続く。