シオヤレクリエーションクラブ

#02 障がいのある子もない子も 一緒にスポーツを楽しめる環境が 日本には少なすぎる|陸上を通して共生社会の実現をめざす|塩家吹雪|

2024年8月末から9月上旬に開催されたパリパラリンピック。競技レベルの高さや観客の動員、大会運営などは「今後の新基準になる」と、成功裏に終わりました。塩家さんは、今から12年前に開催されたロンドンラリンピックに日本代表コーチとして参加しましたが、そこで感じたことは。

●プロフィール
塩家吹雪(しおや ふぶき)

特定非営利活動法人シオヤレクリエーションクラブ 理事長。
1971年生まれ。中学より陸上をはじめ、高等学校卒業後は専門学校に進学し、その後は陸上クラブの選手兼代表者としてクラブを牽引。
2000年より視覚障がい者の短距離走伴走をはじめ、数々の国際大会に出場。指導者としてパラアスリートの強化・育成や日本代表選手団のコーチ・監督を務める。障がい者が一般の陸上大会に出場できるよう主催者に働きかけるなど、障がい者の競技環境を整える活動にも従事。
2024 年より早稲田大学スポーツビジネス研究所 招聘研究員。

 

ーー2012年のロンドンオリンピックといえば、レスリングの吉田 沙保里選手や伊調 馨選手の金メダルのほか、サッカー女子も銀となり、メダル総数は過去最高の38を獲得し、印象が強い大会です。パラリンピックの日本チームも16のメダルを獲得しました。

ロンドンへは、日本代表コーチとして約3週間行きました。
大会期間中ということでしょうか、競技場の外には子どもがスポーツを楽しめるキッズスペースがありました。今では日本でもよく見られるようになりました。

ロンドンでは、そこで障がいをもっている子たちが健常の子と一緒にバスケットやボール遊びしていたんですよ。
今から12年前なのですが、日本で私はそういう風景を見たことがありませんでした。今でも屋外の一般的なエリアではほとんどないのではないかと思います。

それを見たときに「自分の考えは間違えていたかもしれない」と思ったんですね。
自分にとって「障がい者スポーツ」がパラリンピックという高い位置からスタートしていたということもあって、障がいをもっている子どもたちが、たとえば「障がい者になりました。でも、スポーツはやりたいです」というところで、どう成長し、大人になっていくかというところに関心がなかったんです。

言い方が微妙かもしれませんが、大人は情報を自分で手に入れることができるし、会話もできる。支援を求めることもできる。でも、障がいのある子どもは、保護者が動かなければ、その環境から外に出ることができない。

そこで、この12年間、2000年からパラリンピックにコーチとして関わり、経験を通して学んできたことを、今度は障がいをもっている子どもたちへの指導に活かせないかと思ったんですね。

ちょうどそのころ日本パラ陸上競技連盟のスカウトもしていたので、全国の障がいのある子どもたち、選手たちがパラリンピックをどうやってめざしているのかは解っていました。やはり指導者も環境もない状態でした。

パラリンピックを終えたロンドン帰りの飛行機のなか、みんな疲れてグーグー寝ているところで、フライト11時間に一睡もしないで、どうやったら子どもたちの指導ができるか、どこからできるかを自分で模索しながら帰国しました。

 

ーー当時、日本代表コーチは専任だったのですか?

そうではなく、生協コープの職員でした。普通にサラリーマンをやりながらパラリンピックの活動もやっていました。

生協職員の通常の業務として、一軒一軒呼び鈴を鳴らしながら戸別に営業する活動があります。

たまたま同僚があるお宅で視覚障がい者が使う白杖を見かけ、そこでお母さんから「うちの子どもは生まれつき目が見えないんです。誰か指導をしてくれるような人ってご存知ないですか」と話しかけられ、その場から私に電話がありました。

ロンドンから帰国して3日後のことでした。

 

--まさに「偶然は、必然」といえそうです。どういう思いが塩家さんを支えたのでしょうか。

実は私の両親は、私が小学校1年生で弟が幼稚園の年長のころに離婚しています。母子家庭でも父子家庭でもなく、本当に弟と2人きりで、たまに祖父母が来てお金を「勝手に使いなさい」と置いていき、ごはんはコンビニや弁当屋さんで買ってきて弟と食べる生活でした。

小学校のお昼のお弁当は周囲の子は親にもたされますが、私にはお弁当がない。それで、いじめられたりしましたが先生からは「喧嘩を仕掛ける塩家が悪い」「そういうことをやっているから親が出てくんだ」と言われたりしました。

弟にはそういう思いをさせたくないので、私がおにぎりをつくって持たせました。私が小学校2年生のころ、ですね。

その弟も他界してしまい、障がいがあることで周囲から距離を置かれ、そのことが強い劣等感となり、そのまま成長していく現実がよくわかっていたので、「何かサポートができないか」という思いがあったのかもしれないですね。

そんなところでいただいたお声がけに「ぜひやります」と返事をしたところ、その子が筑波大学附属視覚特別支援学校の初等部の生徒で、ほかの子も「ぜひ一緒に見てください」と5人が一気に私の陸上クラブの「かけっこ教室」に入ってきました。

やがて別のお母さんから「障がいがある子の指導もできる人だったら、健常者だけのクラブよりも、むしろ手厚く指導してもらえるのでは」ということで「ぜひうちの子どもも指導してもらえないですか?」ということになって、障がいの子と健常の子がともに活動する、今のかたちがそのころからスタートしたんです。2013年頃のことです。

 

ーーロンドンオリンピックの翌年ですね。

そのようにしていたら、千葉で知的障がいの支援に関わっている方から「千葉で発達障がいとか知的障がいの子どもたちに指導してもらえないか」という相談があり、指導の希望がどんどん増え、このころからサラリーマンと兼務では子どもたちに失礼だと思うようになりました。

「子どもたちを一般の健常者の大会に出れるようにしっかりと指導できないか、習いごとや学習塾と同じようなスクールビジネスとしてやっていけないか」。
リオデジャネイロオリンピック・パラリンピックが2016年に予定されていたので、そのタイミングで起業できないか具体的に考えはじめ、陸上クラブの当時のスタッフに「同好会のような団体ではなく、本格的に起業したい」と打ち明けたところ、皆賛同してくれて、「シオヤレクリエーションクラブ(SRC)」をスタートさせました。

思えば2020年に新型コロナウイルスの感染拡大があったので、少しでも遅れていたら今のようになっていなかったと思います。

 

ーーSRCは「障がい者も健常者も、人数の偏りがないこと」を方針として、「活動を通してインクルーシブな共生社会を実現すること」を理念とされていることが大きな特徴です。

SRCは今、約160人います。障がい者と健常者はほぼ半分ずつです。障がい者が中心とか、健常者が多く一部が障がい者、というクラブは結構あるんですけど、この規模で「障がい者も健常者もいいですよ」と大々的にやっているクラブはほぼないと思います。

つまりSRCは「障がい者をお手伝いするクラブ」ではないんです。
普段の生活でたとえれば、眼鏡をかけてる人に「なぜ眼鏡をかけているんですか」って聞かないですよね。それは眼鏡をかけている人がたくさんいるから気にならないわけで。だとすれば、クラブのメンバーも障がいをもっている子が半分、健常の子も半分であれば気にならないはず。障がいはひとつの個性に過ぎないんです。

うちのクラブのモットーは「子どもたちの笑顔に障がいの有無は関係ない」。それが「インクルーシブ」だと思うのです。

弟が2005年に亡くなり、来年で20年です。
彼が道筋を立て、背中を押してくれているのかなと思いながら現在に立っています。

 

ーー2024年より早稲田大学のスポーツビジネス研究所 招聘研究員としても活動されています。とてもユニークなキャリアだと思います。塩家さんの、高校時代の進路選択や、陸上と出会った経緯などを、詳しく教えてください。

 

「#03好きなことを続けていれば 目標が見えてくる 大学はそれから選んでも遅くない」に続く。

 

特定非営利活動法人シオヤレクリエーションクラブ
https://src-first-hp.jimdofree.com/
「障がい者と健常者が共存し、生き生きと暮らせる社会をつくりだす」ことを目的としたNPO 法人。障がいの有無に関係なく参加できるかけっこ教室、陸上教室やレクリエーションイベント等の企画運営を行う。スポーツを通じたインクルーシブな社会の実現をめざす。
特定非営利活動法人シオヤレクリエーションクラブ
https://src-first-hp.jimdofree.com/
「障がい者と健常者が共存し、生き生きと暮らせる社会をつくりだす」ことを目的としたNPO 法人。障がいの有無に関係なく参加できるかけっこ教室、陸上教室やレクリエーションイベント等の企画運営を行う。スポーツを通じたインクルーシブな社会の実現をめざす。

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