私たちの体には大きく分けると2種類の筋肉があります。心臓にある心筋や、胃や腸などの消化器官、膀胱といった内臓にある「平滑筋」、そして骨とともに体全体を支えながら動かしている「骨格筋」です。全身にまんべんなく存在する骨格筋の数は600を超え、体重の約4割を占めています。骨格筋は運動によって太く強くなり、逆に加齢や運動不足で細く衰えます。そのような変化は身体能力やスポーツ・パフォーマンスにはもちろんのこと、健康の維持にも幅広く影響しています。早稲田大学スポーツ科学部の秋本崇之先生は、骨格筋が変化するときに具体的には何が起こっているのか、分子レベルにまで分け入ってそのメカニズムを研究し、運動が「健康で長生き」につながる仕組みを解明しようとしています。
運動に関連の深い筋肉を生物学の視点から研究
研究室の名前にある「筋生物学(マッスルバイオロジー)」は、欧米では健康医学やスポーツ科学におけるメジャーな分野として知られています。私たちの研究は筋肉に限らず、分子生物学や生化学など最先端の生命科学を使い、スポーツや運動に関わる現象を生物学的視点からとらえようというものです。私は高校時代にラグビーをやり、大学で生理学や生化学を学ぶうちにヒトの体のなかで起こっているミクロな化学反応や物理現象に興味を持って研究者になりました。その実体験に基づいた研究対象のひとつが、スポーツと関連の深い骨格筋です。
自分の意思で動かせる骨格筋は運動することで太くなり、筋肉の収縮速度も変わってきます。収縮速度の速い筋肉(速筋)は瞬発力があるぶん疲れやすい一方、収縮速度の遅い筋肉(遅筋)は持続力に優れています。その割合は通常半々くらいですが、たとえばマラソン選手はトレーニングによって遅筋の割合が大幅に増えています。そのように筋肉が変化するメカニズム(可逆性制御)について、人体というマクロな視点から、たんぱく質や核酸(DNAやRNA)のように目に見えない分子を対象とするミクロな視点までを網羅して研究を行っています。遺伝子操作したマウスの実験や、骨格筋の組織を体の外でつくることもしています。
筋肉内の分子メカニズムが秘める未来への可能性
以前は医学部に所属していたこともあり、私の研究のメインは「定期的に運動して健康になる」仕組みを分子レベルで解明することです。日頃運動している人としていない人の集団を比較した疫学研究では死亡率が明らかに違いますが、運動すると体内でどのようなことが起こって健康になるのかはわかっていないのです。
運動で骨格筋が変化する分子メカニズムを研究するなかで見つけたのが、マイクロRNA(miRNA)のはたらきです。新型コロナワクチンはメッセンジャーRNA(mRNA)を使って短期間で開発され、RNAによる創薬は今注目の分野でもあります。miRNAは遺伝情報がたんぱく質として具現化される「遺伝子発現」に関わっていますので、研究が進めばもともと私たちの体内にあるmiRNAを操作して病気の予防や治療に使える薬をつくれるかもしれません。
これらの分子メカニズムについてはまだほとんど研究されておらず、わかっていないことがたくさんあります。今まで誰も知らなかったことを解明できる、研究者にとってはまさに「宝の山」だと思います。
また、収縮の遅い筋肉と早い筋肉の割合を、現在のように筋肉組織を外科的に採取するのではなく血液や唾液・尿から測定する研究を一昨年から始めました。この割合はある程度遺伝で決まりますので、手軽に検査できれば競技を選択する前に向き不向きを判断できますし、トレーニングの効果が上がっているかどうか逐次モニターすることも可能です。
当研究室は高校での履修科目に関わらず、スポーツや生命科学に強い関心のある人に向いています。また、スポーツ科学部全体が、生涯健康に生きるための科学的な指針が身につく、得難い学びの場だと思います。
『I→technology(アイテクノロジー)』03号より転載。